吉備津神社にて

2024年09月13日

遂に来ました。
まずは腹ごしらえ、吉備津神社前の売店兼食堂でお蕎麦を食べて、これは外せない名物吉備団子を頂き、いざ神社へゴー、
まずは本殿を参拝、本殿はどこの神社にも負けない全国唯一の 比翼入母屋造 (吉備津造)で拝殿とともに国宝に指定されています。本殿に祀られておられるのは主祭神の大吉備津彦命、どこかに温羅が祀られているかを探しましたが、見つけることが出来ませんでした。
((後ほどネットで検索。本殿外陣の北東(艮・うしとら)隅に「艮御崎神」として祀られているそうです。北東は鬼門にあたり、裏鬼門の南西と一緒で日本では古来から鬼の出入り口として忌むべき方角とされているそうです。))
その代わり温羅にまつわる「鳴釜神事」を見学、これを説明すると長くなるので割愛します。
ただこの釜は一日中薪で燃やしており、その場で巫女さんが大汗を流しながら火が絶えないように見守っておられ、丁寧に説明もして頂きました。
桃太郎伝説はこのような神話から室町時代につくられた童話やなーと実感して吉備津神社を後にして一路吉備津彦神社へ。

山陽道 二時間かけて 岡山へ

名物は どこへ行っても 吉備団子

国宝か 歴史感じる 佇まい

本殿

 

釜鳴神事「温羅の唸り声の強弱で占う」

 

「今野敏 桃太郎伝説」PART 2

2024年09月12日

桃太郎伝説という言葉に惹かれて読み直してみました。
小説の中にも詳しく歴史的観点から解説されており、それを基にネットでさらに調べてみました。
この伝説は、紀元前3世紀、大和王権(大和朝廷とも言う)が西国平定のために使わした古事記にも登場する神話上の人物,吉備津彦命(きびつのひこのみこと)が桃太郎、吉備地域、今の岡山を治めていた温羅(うら)が鬼、温羅一族は百済から渡来し、製鉄技術にたけた技術集団、有名なアニメーション映画「もののけ姫」にも出てくる「たたら場」とも、その技術を提供して国を豊かにして地元民に慕われていた。
紀元後一世紀頃に出雲の国も日本武尊(やまとたける)に征伐されたのと一緒で大和朝廷としては征服して領土拡大が目的であったのかも?、そこに出てくるのが岡山市にある吉備津神社と吉備津彦神社である。
ちなみに桃太郎伝説をなぞって殺人事件が起こり、岡山県警の要請によりST(警視庁科学捜査班)が出動してこの殺人事件を解決するストーリーですが、小説より桃太郎伝説に大いに興味がわき、遠いいにしえのロマンを求め、二つの神社を訪ねて桃太郎伝説の深淵に迫りたいと思います。

いにしえの ロマン求めて 岡山へ

桃太郎 神社探訪 真相を

 

「小説家 今野敏」PART 1

2024年09月11日

昔から時代小説を読むのが好きで文庫本や単行本を時間のある時は読み漁っておりました。

ここ数年は、電子書籍サービスを利用しています。 PCや携帯、特にKindleの書籍リーダーを利用していつでもどこでも読めるようにしています。 最近はまっているのが今野敏の警察小説です。

初期の作品の「蓬莱」を読みました。 ストーリーの中に紀元前2世紀の秦の始皇帝に不老不死の薬を探すように命じられた徐福を題材にしてそこにスーパーファミコンのゲームソフトを絡めて話が展開していく、実際に徐福については日本のあちこちに言い伝えやお墓があったり公園になってたり、その不老不死の薬は天台烏薬「テンダイウヤク」として今もお茶として出されております。

古事記、日本書紀も調べるきっかけを与えてくました。 さらにその時代背景も調べることが出来ました。

これをきっかけに今野敏の「桃太郎伝説」に繋がります。

迷走していた台風10号も近畿圏にはほとんど影響もなかったので近日、この目で確認しようと岡山へ行ってきます。

紀元前 ほんまに来たん 徐福さん

始皇帝 陵を守るは 兵馬俑(へいばよう)

悠久の ロマン感じる 不老不死

水銀を 仙薬信じ 早死にす

(始皇帝が飲んでいた?・行年49歳)

徐福公園(和歌山県 新宮市)     約2200年前に霊薬を求め渡来した?徐福

 

天台烏薬を使った徐福茶          兵馬俑

 

 

 

 

 

ベトナムつながり——

2024年09月09日

デイサービスおおむちにベトナム ホーチミン市出身のブイ・アン・ダオさんがおられた

事を覚えておられる方もいると思います。 ベトナムへ帰られて、今もラインのやり取りを

しています。 もともとベトナムでも大学を出たスキルの高い方で日本語能力もN3、

介護福祉士として働いておられましたが、経理等の能力や語学力(ベトナム語・フランス語

・英語・日本語)も高く、介護の仕事から新しい道へ転身されたとの事、

今の仕事は順調ですかと聞いたところ、なんと今アメリカのテキサスにいます。

もっとスキルを高めてアメリカで働きたいとの事、すごい方やと改めて見直すとともに

日本から応援してるから頑張ってとエールを送りました。

スキルアップ 無駄にはならない 回り道(頑張れ ダオちゃん)

 

ベトナム出張

2024年09月09日

今から8年前にNPO法人 日本ベトナム医療連携推進センターの理事として

ハノイに訪問した時の話です。

まあ兎に角向こうの熱量・熱気には驚かされました。

単車が多い、信号はほぼ守らない、初めて単車の4人乗りを見ました。

信号がない横断歩道を渡るのは命がけです。これホンマ。

ベトナムの今の人口は1億人を超えどんどん増えています。

それに引き換え日本は少子化で人口はどんどん減っています。

GDPは中国に抜かれその内ベトナムにも抜かれるかも?8年も経つと

きっと大きく変わっているんでしょうね?

ベトナムに その内抜かれる 日本です             

バッチャン焼き

ヒヨドリ(過去のブログ)

2024年09月06日

以前にもちの実をついばむヒヨドリのブログ を掲示しましたが、

過去の画像を整理していたらヒヨドリが止まっている画像を見つけました。

確かこの写真を撮るのに10分近く音を立てずに

カメラを構えていたことを思い出します。

さて以前の画像でどこにヒヨドリいるでしょうか?

忍耐も 無心になると できるんや

  (この画像です)

エイジフリーの変遷

2024年09月02日

西多田おおむちを振り返った時にエイジフリーもまたどのように変わっていったのかを思い返しました。

平成14年1月オープン、ちょうどおおむちデイサービスを始める1年半前です。 元々は(株)協栄メディカルサービスの1部門として協栄ビル1階でスタートしました。 写真にあるように「松下電工エイジフリー介護チェーン川西」という名称でしたが、松下電工が松下電器産業に吸収合併され、松下電器産業も名称を「パナソニック」に改名し、我々の介護事業も「パナソニックエイジフリーショップ川西」となり、隣の新社屋へ移転しました。  さらに宝塚エリアも増えて川西(川西、伊丹、池田、猪名川)と宝塚の二つのエリアを担当しております。  所属も(株)三栄ケアサービスとなり、完全に独立し介護事業に特化して25周年を目指して頑張っていきます。

今後ともよろしくお願いします。

人生で 老いは必ず やってくる

要介護 誰もがいつか 通る道

目指すのは 利用者様に 幸せを

開業当時                今の事業所

 

 

 

 

築地本願寺参拝

2024年08月30日

以前から築地を通った時に奇抜な建物の築地本願寺があり一度見学しようと途中下車、大きな本堂、そして中央に阿弥陀如来様、椅子が三百席以上あり、冷房がよく効いており30名位の方が涼んで、否お参りされておりました。

私もちょっと座っていたら、若い僧侶の方が、マイクを持ってお休みのところ申し訳ありませんが10分ほどお話を聞いてもらえませんかと言いながら話をされました。 内容はお経の話でしたが、自分自身の為に唱える、唱えてもらうことを例を挙げながらわかりやすく説明していただき、だんだん話の内容に引き込まれていき、終わったら思わず拍手してました。

帰りに売店に寄ると、お守りはないということで「安穏」と書いてあるストラップをお守りかわりに購入、ちなみに「安穏」を調べてみました。 親鸞聖人様が開示なさった言葉に「世の中安穏なれ」豊かな実りと、女性が家に安らいでおれる日々、それこそ万人の願いと書いてありました。

また一つ勉強になりました。合掌。

友達も 同じ宗派の お坊さん

偶然に 法話が聞けて 感動す

お守りは ありませんけど 安穏(あんのん)は

築地本願寺の本堂           本願寺の安穏ストラップ

今年は13体集めました。(お守りは1体、2体というそうです)

ついでに神様は1柱、2柱、七福神は7柱?

深川不動尊&富岡八幡宮参拝

2024年08月26日

門前仲町に深川不動尊と富岡八幡宮が近くにあります。

この近くにコダックの本社があり、何回も足を運んだ所、少し早めに行って良い商談ができるようにとの神・仏頼み、そのおかげでいまがある?というわけで懐かしさのあまり足を運んだら丁度護摩修行に参加できました。

またたくさんの御利益を頂いたかな? そして富岡八幡宮へ参拝、本殿の横手に横綱力士碑があり、第66代若乃花までが刻印されておりました。

それから近くの寿司屋で長女の旦那と一杯、カラオケして11時にホテルに帰りました。

護摩修行 お腹に響く 大太鼓

力士碑に 名横綱の 刻印が

深川不動尊(成田山 新勝寺の末寺)   富岡八幡宮

富岡八幡宮内の横綱力士碑

 

西多田 おおむち

2024年08月26日

今日は母親の命日、亡くなって早19年、お袋を思い出しながらお参りしました。

家に帰りお袋の写真を見ながら、なんで西多田の地に在宅介護ができる施設を作ったのかを考えてみました。

母親が亡くなる10年ぐらい前から認知の症状が出始めて、地元のデイサービスやショートステイにお世話になっていましたが、徘徊がひどくなり、自宅での介護の限界が見えてきて、知り合いの療養型の病院に入院しましたが、入ってすぐに転倒骨折し、ほぼ寝たきりになってしまいました。

これが契機となり、自分でそのような施設を作ろうと思い立ち、西多田の地に1階は知り合いの整形外科の先生が開業し、2階にデイサービス、訪問介護、介護支援事業所、さらに3階に10室ですが老人マンション、4階に当初より色々と介護事業の相談をしていた先生が在宅支援の診療所を開設することとなり、医療と福祉の総合ビルとしてスタートすることとなりました。

1階正面側にはミニストップのコンビニも入り平成15年5月にスタート、第一号の入居者は、母親でした。

それから20年以上が過ぎ、私がお世話になる年齢となってきました。

形態は変わりましたが、医療福祉の総合ビルとして今も続いています。 時の経つのはあっという間ですね。

介護ほど 大事な仕事 他にない

時流れ 次は自分の 番となる

デイサービスの風景(左が母、隣が姉の義理の母、その隣が家内の母親)

(21年前の開業当初の三栄ビル)