雑誌で、最近の教科書には聖徳太子の名前が消えていると書いてあったので、真意の程を確認しようとネットで検索、聖徳太子ではなく厩戸王(うまやどのおう)、日本書紀には「上宮厩戸豊聡耳太子(うえのみやのうまやととよみみのひつぎのみこ)」と書かれており、聖徳太子という名称は、死後130年後の書物に初めて出てきたそうです。歴史の研究が進み、「厩戸王」という実在した正しい名前で教科書に記述されているそうです。ただ我々の世代は、聖徳太子は一万円札でたえず目にしておりましたし、「十七条憲法の制定」や「冠位十二階の制定」「仏教の保護」「法隆寺・四天王寺建立」「遣隋使派遣」など伯母(聖徳太子の母の姉)である推古天皇の摂政として国政を見事に運営されておられました。特に「和をもって貴しとなす」という言葉は、日本の協調性を大切にする価値観のルーツとされています。ただ晩年は失意のもと、法隆寺に接した斑鳩宮に引きこもり、622年48歳で亡くなられたそうですが、死因に不審な点があるようで、色々調べていると、こんな本「聖徳太子は誰に殺された」を見つけて読んでみました。ご興味のある方はお読みください。史実がどうあれ、聖徳太子様は永遠に不滅です。

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺(正岡子規作)

法隆寺 聖徳太子 建立す

和をもって 貴しとなす 今昔

どうしたら 一度に十人 聞き分ける?