実は、庵主さんがお亡くなりになった時に、壱岐対馬に旅行の予定を立てておりましたが、キャンセルしました。訪問の理由は、壱岐対馬に上陸した元寇に対馬で迎え撃った「宋助国」と同じく壱岐で迎え撃った「平景隆」が勇敢に戦った歴史を現地で感じたかったのですが、それは次回訪問した時にお伝えしたいと思います。今回は鎌倉武士団がどのようにして元寇の大軍と戦ったのか、神風が吹いて元寇は全滅したというように聞いていましたが、実際はそれだけではなかったようです。一回目の元寇の侵攻は、文永11年(1274年)元寇の軍勢は、約2万5千人の元軍と8千人の高麗軍で対馬・壱岐(両島で虐殺を行いました)を占領して、九州博多へ攻めてきました。およそ1万人?の鎌倉武士団の奮戦で上陸できずに撤退、二回目は弘安五年(1281年)に東路軍(蒙古人・漢人・高麗人)4万、江南軍(南宋の降伏兵)10万の合計14万人が博多に攻め寄せるも、文永の役後に上陸阻止のために20kmにわたり石塁の障壁を作り、およそ数万人?の鎌倉武士団の奮戦もあり、上陸できず一度撤退、再度博多湾に集結もその時に暴風雨(神風)に見舞われほぼ壊滅、その後元に帰り着いたのは14万のうち3万とも言われています。ただ元寇の襲来が原因でその後、鎌倉幕府が滅んだとも?もし仮に元に負けていたら、それからの歴史も大きく変わり、今の日本の姿も変わっていたかもしれませんね?
本当は 鎌倉武士は 強かった
神風も 味方につけて 殲滅す
今もまだ 侵略戦争 続いてる
どうしたら 戦の無い世 できるのか
元寇 蒙古兵の供養塔(福岡市)